2016年1月22日金曜日

渡辺眸 写真展『旅の扉 ~猿・天竺~』

1月16日(土)に渡辺眸さんと飯沢耕太郎さんのトークショーを開催しました。
耳を傾けているうちに身体は浮遊しはじめ、渡辺さんが旅した道中にワープしてしまうかのようで。おふたりの声音の心地よさといったら…、あぁ、インド、ネパールへきもちよくトリップ…。


さて、こんなことを語っていただきました。2回にわたってご報告です。

















「激動の新宿から天竺へ」 

社会全体が激動の時代であった60~70年代に、個人としてビビッドに社会と向き合った渡辺眸さん。
60年代、新宿の街やテキ屋にカメラを向けるさなか、東大全共闘ムーヴメントに出会い、当時の緊張高まる物々しい熱気を映した写真家です。唯一、バリケード内での撮影を許可されたのが渡辺眸さんだったというからスゴイ。
そんな渡辺さんが新宿の次に足を向けたのがインドだった。70年代に入って、なぜいきなりインドとネパールに?

「当時、欧米志向がまったくなく、とにかくインドに呼ばれたという感じ。スーッと、まるで大阪にでも向かうような感じでインドに行ったね、とまわりから言われました。なんの知識もなく行って、はじめはやっぱりショックでしたよ。カメラは持っていたけど、実は1年半ほど撮れなかったんです。」

当時インドにはニコンがない時代で、キャノンやミノルタだと売れたのだそう。売れるものを売って唯一手元に残ったカメラで撮影を続けた渡辺さん。フィルムを鞄に入れっ放しにしたながーい旅の道中、気付かぬうちにフィルムにはカビが生えたりもしていたのだとか。カビが影響して現れたプリントは、荒々しくじゃりじゃりしたようなノイズがあり、なんだか旅の写真ならではと思わせる。旅の道中に刻まれた記憶、時間、空気、温度、匂い…そんなものたちが、写真を通して、ぶわっと土埃舞い上がるかのように身体を包むのです。

「その後<宇宙復帰>はできたけど、<社会復帰>ができなくて、実は二回目にインドに行ったときの方が写真は撮れました。暮らしながらの撮影でした。部屋を借りてストーブたいて、チャイつくったり、パンつくったりしてました。数千年変わっていないこともあれば、10年で変わってしまう光景もある。もう10年くらい行ってないから、インドに行きたいですね。次に行くとしたらケララに行きたい。ネパールにも行ってヒマラヤを14日間歩いた事もありますが、そういえば、ネパール語で話しかけられるほど土地に溶け込んでいました。」

すかさず飯沢さんはこうつっこみます。
「あの頃みんなインド行ってましたよね。インド帰りはみんな宇宙イッちゃってるじゃんといった感じで、髪も長くて不信感があったなぁ(笑)。

「時間感覚となつかしさ」

飯沢さんがみた渡辺さんの写真とはどんなものなのでしょう?

「旅の写真じゃないと思いました。旅の写真っていうと、うつろいやすくてかすかな写真になりがちだけれど、渡辺さんの写真はそうではない。風景が長いスパンのなかでとらえられていると思う。渡辺さんの作品の中には風景や人や建物だけでなく、動物もいますよね。動物もまるで原始時代からいるような。まるで彫刻みたいで時間が止まっているような感覚を覚える。移ろうようではなく永遠にそこにいるような見え方なんですよ。」

「僕はインド行った事ないけど、ところどころ懐かしさを感じる。どっかでみたことあるなあっていう。例えば傘さしてる男の大判の写真。これ、大竹昭子さんも反応していた一枚だけれど、生きてるってことが伝わる写真ですよね。こういう風景は今じゃ日本でなかなか体験できないわけだけど、昔は浮浪者がこっちをじっと見ているような光景はあったものです。」

男と同じ目の高さでシャッターがきられたこの一枚。見も知らぬ男だけれど妙になつかしい。
ニッと歯をだして笑うカラッと湿度のないかんじに親近感を抱いたりもする。物乞いなんだろうけれど、なんだかこの男が足をつけた地面から、生きる熱風がじりじりとあがってくるかのよう。

「見知らぬ記憶や経験がひゅっと写真を介してつながることってある。それが眸さんの写真には多い。それが多い写真がいい写真だと思うんですよ。もし眸さんが欧米に向かっていたらこういう郷愁の感じはないんじゃないかな。アジアという大きな枠組みでの生きる在り方や感受性を考えると、日本人とのつながりはやっぱりあると思いますね」

文化や言葉は違えど、アジア的な混沌は根底でつながっているのかもしれない。
いやいや、かもしれない、ではなく、きっとそこが相互感受の可能性を孕む強い礎なのだと思う。だからなつかしさが匂ってくる。














つづく!

(麻)

0 件のコメント:

コメントを投稿