エミリーさん、 今回はアートだけでなく禅のことも考える貴重な機会ですね。 まずは各作品にコメントください。
テレザ・ステリコヴァ:
4世代にわたる女性同士(彼女と彼女の母と祖母と娘)は、 4人でひとつのシェアをした時、 次の世代へヴィジョンはどう受け継がれるのか…と考え中。
河合政之:
作品から発せられる反復不可能なノイズは私達の前を通過して、 じゃあどこへ向かっているのか。行き先は?と考え中。
ガイ・シャーウィン:
秒針が動き和紙がまわる、和紙がまわり太陽の光が動く。 和紙の角度によって光は消えて、また戻ってくる。変化が不変、 結局はどっちなんだろう、どっちでもないんだろうなと考え中。
ジョージ・バーバー:
核弾頭をつんだ潜水艦の中でトランス状態になるって超危険な感じ がするけど、 個人がそこらへんの道ばたでトランスに陥るのだって、 同じくらい…と考え中。
赤塚りえ子:
仏壇の中で絶え間なく踊り続ける女性のヴィジョンは、 今迄見てきたどんな仏像よりも仏様っぽい、と感じながら考え中。
Kaz:
ミラーボールのキラメキに散りばめられた映像は私達の周りを覆い 囲んで、それでも新幹線は目的地へと走り続ける。 その光景を見ているこちらの時間もミラーボールの中に越境して、 もしかして時間は流れるものでないのかも?と考え中。
心を整える修行のひとつで座禅があるけど、 エミリーちゃんは時間に追われる毎日何で心を整えてる?:
ユーチューバーの動画を見る。
展覧会おすすめポイントを教えてください!:
絶対に、答えも正解も見つかり得ない。 だけど時間について考えてみる。それらは全て「考え中」 で未解決のまま、アツコバルーを後にすることになると思う。 現実の中で、また時間の波にザブザブと揉まれた時、ふと、 何かの欠片が分かったような「気がする」かも。… 気がするだけかも。
自分の中に存在する「絶対の今」を、 アツコバルーの中で過ごしてみてください。
ありがとうございました!
さて、最後は、シュテファンさん。 スタッフインタビュー締めくくりお願いします!
テレザ・ステリコヴァ:
男を中心とする社会を背景としつつ、 そこから一歩離れたところに身を置いて、 眼差しの持ち主という主体位置を女として再領有し、 女であることの系譜学、女としての歴史の可能性を、 味覚や触覚にも訴える映像を通じて追求するアーティストに、 わたしはとても魅了された。
河合政之:
人間にとって意味をもつように組み立てられている音、 画素の秩序を一時的に解体し、 特定の音を邪魔だと認識するのはなぜなのか、 音の別の秩序の創造は可能なのかなどのような問いをわたしにぶつ け、 出される音の偶発性をもって秩序というものの恣意性を嘲笑う、 非常に興味深いインスタレーション。
ガイ・シャーウィン:
一枚の回転する紙と断片的にそれに投射される光。 陰と陽という語をも連想されるが、 非常にシンプルであるこのフィルム・インスタレーションは、 かけ離れて存在する二項対立と思われがちなものが、実は、 表裏一体になっていることに改めて人を気づかせ、 何をもってそれを「別けられた」のか、そもそもなんのために「 別けよう」とするのかなど、さまざまな疑問を抱かせる。
ジョージ・バーバー:
なかなかヘンテコリンで視覚的に非常に刺激的な映像。 多岐にわたる映像・パフォーマンスを創る作家なので、 彼の他の作品と比べて観るとなお面白い。
赤塚りえ子:
流れてゆく生と一瞬にして永遠の死。 静止画の連鎖としての映像と仏壇をもってその関係性を問う、 妙な作品である。
Kaz:
真っ直ぐ軌道の上を走りいつか予定地に到着するはずの新幹線の映 像が二重に屈折され、 果てしなく回転するミラーボールを介して壁に放たれる構造に、「 幸せ」をつかもうと型どおりの道しか歩まず、 規範化された過去を「個性性溢れる」 未来として再生産する現代人の内的矛盾への、 皮肉たっぷりの指摘がよみとれる。
シュテファンさん、時間は常に移ろっていくものだけど、あぁ~「 今」を止めたい!って思う時ってあったりする?:
ほとんど思わない。時間、 テンポラリティーとは一つの普遍的なものではなく、 人間の文化的・社会背景、人種、ジェンダー、 セクシュアリティーなどによってそれぞれ異なって意味をなし、 異なって理解され、異なって生きられるもの、つまり、 それぞれの個人において、交叉することが当然ありつつも、 必ず同じスピードで同じ方向へと流れるとは限らない。
ありがとうございました!
(完)